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生駒屋敷跡(江南市小折町)
小折の交差点から一本西側の新しい道沿いを行くと保育園があり、その横に生駒屋敷跡がある。小折城跡とも言われる。
生駒氏はもともと藤原忠仁の子孫で応仁の頃、戦乱を避けるため大和の生駒山麓からこの地に移り住んだらしい。 尾張を統一し天下布武をもくろむ信長は、生駒氏の経済力と情報収集力(生駒氏は馬借業として販路を拡げ、三河以東に勢力を張っている今川氏の動向をキャッチしている)に着目し、生駒氏との関係を深くしていくことになる。しばらくして生駒家宗の娘吉乃を室として迎え二人の間には嫡男の信忠、次男の信雄、徳川信康室になる五徳の三人の子ができた。
また弘治元年(1555)頃に木下藤吉郎は生駒屋敷を訪れ、蜂須賀小六の家来になっていた。 この吉乃の取りなしで藤吉郎は信長に仕えることになるのだ。信長は、蜂須賀小六や前野将右衛門等から情報を集め、桶狭間奇襲や美濃攻めなどの構想もここで思案したという。
後に小牧・長久手の戦いの折、信雄が堀を巡らし櫓を建てた。 天正十二年(1584)八月、信雄と家康がこの地にきて富士塚に登り作戦を練ったという。その時、城の防備が薄いのに家康は嘆いたという。
信長周辺についての記述は昭和34年に前野屋敷から『武功夜話』が発見されて、分かってきた。
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